真珠湾攻撃後、当時まだアメリカの準州だったハワイが差し迫る恐怖で混乱する中、
第100歩兵大隊は編成されました。第100歩兵大隊の兵士のほとんどは、家庭で日本の伝統的な価値観を、学校でアメリカの民主主義思想を学んだ日系アメリカ人二世たちでした。真珠湾攻撃以前からアメリカに忠誠を誓い、結束して軍隊に志願した二世の若者は、ハワイ国防軍の第298歩兵連隊、第299歩兵連隊の半数を占めていました。
The 100th Infantry Battalion was formed after the attack on Pearl Harbor, during a period of turmoil and fear in the Territory of Hawaii. The 100th was made up almost entirely of Nisei, second generation Americans of Japanese Ancestry (AJAs), who had learned traditional Japanese values at home and American principles of democracy at school. Young Nisei men had demonstrated their willingness to serve their country well before the attack, comprising nearly half of the 298th and 299th Infantry Regiments of the Hawaii National Guard.
第442連隊戦闘団は1943年2月、4500人の日系アメリカ人志願兵によって結成されました。志願した兵士のうち、3分の2はハワイ出身、3分の1は、家族が自宅から強制的に収容所へ送られたアメリカ本土出身者でした。
第442連隊戦闘団の二世兵士は、ミシシッピ州のキャンプ・シェルビーで1年以上もの厳しい戦闘訓練に耐え、1944年5月、イタリア戦線で第100歩兵大隊と合流しました。その後、1945年5月まで、ヨーロッパ戦線での代表的な8つの戦闘で大活躍しました。
彼らが参戦した戦いの中で最も多く語り継がれているのが、1944年秋、フランス・ボージュ山脈での「失われた大隊救出作戦」です。当時、アメリカ陸軍第141連隊第1大隊がドイツ国防軍に囲まれ、退路を絶たれてしまいました。第442連隊戦闘団は、5日間の激しい戦闘の末、ドイツ国防軍の包囲網を突破し、第1大隊の兵士211人を無事救出しました。しかし、この211名の命を救うために、第442連隊戦闘団の兵士400人以上が死傷しました。この戦いは、アメリカ陸軍史の10大戦闘の一つとされています。
The 442nd Regimental Combat Team (RCT) was formed in February 1943, with 4,500 volunteer Americans of Japanese ancestry (AJAs). Two-thirds were from Hawaii, the rest from the Mainland, where many of their families had been forced out of their homes and relocated to internment camps.
第2次世界大戦中、日本人を祖先に持つ6000人以上の日系アメリカ人が陸軍情報部に従事し、その約半数はハワイ出身者でした。敵国である日本の言葉や文化に関する知識を有した陸軍情報部の兵士たちは、無数のかけがえのない命を救い、早期終戦に導く大役を果たしたといわれています。
陸軍情報部の二世兵士の多くは、ミネソタ州の陸軍情報部言語学校で学び、やがて、少人数で編成されたチームで最前線から最高司令部に至るまでのあらゆる部隊に配置され、めざましい功績を残しました。彼らは太平洋やアジア、そしてイギリス、オーストラリア、中国など、連合国に駐留していた米軍師団に配置されました。
二世兵士たちは、大日本帝国軍との攻防戦において、アリューシャン列島からガダルカナル、中国、沖縄まで、あらゆる戦地で戦いました。戦争捕虜の尋問や、日本側から入手した文書の翻訳、プロパガンダの執筆、ラジオ放送の制作や傍受を担い、敵陣への侵入、敵兵が潜んでいる壕の掃討、また、戦闘歩兵としても闘いました。その上、その容姿から友軍から日本兵に間違われる危険もあり、その恐怖を背負いながら戦い抜きました。