この写真展は、1800年代後半の最初の移民である1世から現代のはわいまで、日系人がどのように日本の文化的価値を維持し、伝えてきたかを紹介しています。

展示の中心となるのは、第2次世界大戦中に米軍として従軍した2世兵士の物語で、ハワイでの2世が戦後に残した功績もご覧いただけます。また、ハワイ出身の著名な日系アメリカ人を、彼らの祖先の出身地に従って都道府県ごとに紹介しています。

The intent of the exhibit is to educate people on the story of Hawaii’s Nikkei and to promote goodwill and cross-cultural values between Japan and the United States.

2017年、2018年には、日本の神奈川(横浜市)、東京、福島、大阪、広島(2回)、新潟(長岡市)、福岡、北海道、沖縄、宮城、熊本の各都道府県で巡回展示しました。明治元年に日本からハワイへ最初に移民した「元年者」から150周年となった2018年には、記念行事の一環として、オアフ島、カフルイ、リフエ、コナ、ヒロなど、ハワイ州の様々な場所で展示されました。 本ウェブサイトでは、より多くの方に日系アメリカ人、写真展の情報を提供しています。

 

Below are the Nikkei stories depicted in chronological order:

アロハ

このお話は日系移民が最初にハワイに到着した1868年に始まります。日系移民とその子孫、ハワイ日系人の今日までの歩みを見ていきましょう。

この歴史展示の目的は、どのように日系移民の文化や価値観が、時を経て受け継がれ、ハワイの多様な文化と混ざり合っていったかをご理解頂くことにあります。

日系移民の子孫により作られたこの展示が、ハワイと日本の関係を永遠のものとし、アメリカと日本の間の交流や理解の深化に役立つことを願ってやみません。

初期の契約移民

初期の契約移民

1868年、少数のグループの日本人がハワイにやってきました。彼らの多くは横浜市の出身で、熱帯地方の太陽の下、農作業を行うことには慣れていませんでした。うまく生活していくことができず、ハワイへの冒険は成功とは言えませんでした。

1885年以降、ハワイ王国と明治政府双方の合意を受けて、さとうきびプランテーションのオーナーは、主に福島県、新潟県、広島県、山口県、福岡県、熊本県、沖縄県などの地方から労働者を雇用します。これにより、多くの日系移民がプランテーションで働くためにハワイにやってくることとなりました。

多くの労働者は貧しい家族の出身で、素晴らしい新たな生活を夢見て、そして、ハワイでお金を稼いで日本に帰るのだという希望を持って、単身でやってきました。

しかしながら、プランテーションでの生活は厳しく、給料は安かったのです。労働者はプランテーションのオーナーとの契約の下、思っていたようにお金を蓄えることはできませんでした。

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初期の契約移民

初期の文化の融合

初期の文化の融合

最初の日系移民(一世)の中には、契約を終えると、より多くのお金を稼ぎ、良い生活をすることを求めてプランテーションを去っていく者もいました。拡大する日系人コミュニティでモノやサービスを提供するため、小さなお店を開いた者もいました。プランテーションに残った一世は賃金と雇用環境の改善を求めて、ストライキに加わりました。

1910年代までに、多くの一世がハワイに残る決断をし、家族に「写真花嫁」を見つけてくれるよう手紙を書きました。「写真花嫁」とは、ハワイに移住した、まだ見ぬ日本人と結婚するためにハワイに渡った女性たちのことです。

ハワイで生まれた日系二世は、ハワイ原住民や、プランテーションで働くために連れてこられた中国人、ポルトガル人、フィリピン人に親しみを覚え、文化を吸収していきました。様々な文化の融合は、食事、衣服、言語、教育、そして社会活動にも表れ始めました。

一世は日本の文化や価値観を教えましたが、二世の子供たちはアメリカ国民として、アメリカのやり方も学びました。二世は、日本的価値観を維持しつつも、ハワイ文化の中で完全にアメリカナイズされていきました。

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初期の文化の融合

太平洋戦争の始まり

太平洋戦争の始まり

1941年12月7日、大日本帝国海軍の航空機が 真珠湾を攻撃し、アメリカが第二次世界大戦に参 戦することとなりました。真珠湾攻撃は世界を驚 かせ、ハワイの日系人にも疑いの目が向けられる こととなりました。ハワイでも戒厳令が宣言され ました。

ア メ リ カ 西 海 岸 へ の 侵 攻 を 恐 れ 、フ ラ ン ク リ ン ・ D・ルーズベルト米国大統領は1942年2月19日 に大統領令第9066号に署名し、西海岸に住んで いた約12万人もの日系人が抑留されることとな りました。

彼らの多くはアメリカ国民であったにも関わら ず、住居や農場やビジネスを手放すことを強要さ れ 、大 き な 損 失 を 被 り ま し た 。そ し て 、軍 に よ る 監 視の下、西海岸から遠く離れた強制収容所に移送 されました。

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太平洋戦争の始まり

ハワイでの抑留の経験

ハワイでの抑留の経験

真珠湾攻撃時、日系人はハワイの人口の40%近く を占めていました。これだけ多くの労働力を収容する ことは非現実的であり、経済的影響も計り知れませ ん。アメリカ政府はハワイにおいては日系人の抑留 に異なるアプローチをとることとしました。

日本との戦争を予期し、連邦調査局(FBI)は、拘 留すべき日系人を決定するため、ハワイの日系コミュ ニティの中で有力な個人の情報を調べました。聖職 者、語学学校の職員、領事館員、日本とつながりのあ るビジネスマンなどです。

On December 7, 1941, over 400 men were arrested. They were initially detained in tents at Sand Island in Honolulu Harbor and at other locations across the Hawaiian Islands, then relocated to the Honouliuli Internment Camp in Central Oahu or to internment/ detention camps on the Mainland. Over 2,000 people were eventually interned at the various facilities.

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ハワイでの抑留の経験

アロハ

このお話は日系移民が最初にハワイに到着した1868年に始まります。日系移民とその子孫、ハワイ日系人の今日までの歩みを見ていきましょう。

この歴史展示の目的は、どのように日系移民の文化や価値観が、時を経て受け継がれ、ハワイの多様な文化と混ざり合っていったかをご理解頂くことにあります。

日系移民の子孫により作られたこの展示が、ハワイと日本の関係を永遠のものとし、アメリカと日本の間の交流や理解の深化に役立つことを願ってやみません。

初期の契約移民

1868年、少数のグループの日本人がハワイにやってきました。彼らの多くは横浜市の出身で、熱帯地方の太陽の下、農作業を行うことには慣れていませんでした。うまく生活していくことができず、ハワイへの冒険は成功とは言えませんでした。

1885年以降、ハワイ王国と明治政府双方の合意を受けて、さとうきびプランテーションのオーナーは、主に福島県、新潟県、広島県、山口県、福岡県、熊本県、沖縄県などの地方から労働者を雇用します。これにより、多くの日系移民がプランテーションで働くためにハワイにやってくることとなりました。

多くの労働者は貧しい家族の出身で、素晴らしい新たな生活を夢見て、そして、ハワイでお金を稼いで日本に帰るのだという希望を持って、単身でやってきました。

しかしながら、プランテーションでの生活は厳しく、給料は安かったのです。労働者はプランテーションのオーナーとの契約の下、思っていたようにお金を蓄えることはできませんでした。

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初期の文化の融合

最初の日系移民(一世)の中には、契約を終えると、より多くのお金を稼ぎ、良い生活をすることを求めてプランテーションを去っていく者もいました。拡大する日系人コミュニティでモノやサービスを提供するため、小さなお店を開いた者もいました。プランテーションに残った一世は賃金と雇用環境の改善を求めて、ストライキに加わりました。

1910年代までに、多くの一世がハワイに残る決断をし、家族に「写真花嫁」を見つけてくれるよう手紙を書きました。「写真花嫁」とは、ハワイに移住した、まだ見ぬ日本人と結婚するためにハワイに渡った女性たちのことです。

ハワイで生まれた日系二世は、ハワイ原住民や、プランテーションで働くために連れてこられた中国人、ポルトガル人、フィリピン人に親しみを覚え、文化を吸収していきました。様々な文化の融合は、食事、衣服、言語、教育、そして社会活動にも表れ始めました。

一世は日本の文化や価値観を教えましたが、二世の子供たちはアメリカ国民として、アメリカのやり方も学びました。二世は、日本的価値観を維持しつつも、ハワイ文化の中で完全にアメリカナイズされていきました。

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太平洋戦争の始まり

1941年12月7日、大日本帝国海軍の航空機が 真珠湾を攻撃し、アメリカが第二次世界大戦に参 戦することとなりました。真珠湾攻撃は世界を驚 かせ、ハワイの日系人にも疑いの目が向けられる こととなりました。ハワイでも戒厳令が宣言され ました。

ア メ リ カ 西 海 岸 へ の 侵 攻 を 恐 れ 、フ ラ ン ク リ ン ・ D・ルーズベルト米国大統領は1942年2月19日 に大統領令第9066号に署名し、西海岸に住んで いた約12万人もの日系人が抑留されることとな りました。

彼らの多くはアメリカ国民であったにも関わら ず、住居や農場やビジネスを手放すことを強要さ れ 、大 き な 損 失 を 被 り ま し た 。そ し て 、軍 に よ る 監 視の下、西海岸から遠く離れた強制収容所に移送 されました。

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ハワイでの抑留の経験

真珠湾攻撃時、日系人はハワイの人口の40%近く を占めていました。これだけ多くの労働力を収容する ことは非現実的であり、経済的影響も計り知れませ ん。アメリカ政府はハワイにおいては日系人の抑留 に異なるアプローチをとることとしました。

日本との戦争を予期し、連邦調査局(FBI)は、拘 留すべき日系人を決定するため、ハワイの日系コミュ ニティの中で有力な個人の情報を調べました。聖職 者、語学学校の職員、領事館員、日本とつながりのあ るビジネスマンなどです。

On December 7, 1941, over 400 men were arrested. They were initially detained in tents at Sand Island in Honolulu Harbor and at other locations across the Hawaiian Islands, then relocated to the Honouliuli Internment Camp in Central Oahu or to internment/ detention camps on the Mainland. Over 2,000 people were eventually interned at the various facilities.

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Nisei Veterans Legacy