ハワイ日系人の歩み

初期の文化の融合

最初の日系移民(一世)の中には、契約を終えると、より多くのお金を稼ぎ、良い生活をすることを求めてプランテーションを去っていく者もいました。拡大する日系人コミュニティでモノやサービスを提供するため、小さなお店を開いた者もいました。プランテーションに残った一世は賃金と雇用環境の改善を求めて、ストライキに加わりました。

1910年代までに、多くの一世がハワイに残る決断をし、家族に「写真花嫁」を見つけてくれるよう手紙を書きました。「写真花嫁」とは、ハワイに移住した、まだ見ぬ日本人と結婚するためにハワイに渡った女性たちのことです。

ハワイで生まれた日系二世は、ハワイ原住民や、プランテーションで働くために連れてこられた中国人、ポルトガル人、フィリピン人に親しみを覚え、文化を吸収していきました。様々な文化の融合は、食事、衣服、言語、教育、そして社会活動にも表れ始めました。

一世は日本の文化や価値観を教えましたが、二世の子供たちはアメリカ国民として、アメリカのやり方も学びました。二世は、日本的価値観を維持しつつも、ハワイ文化の中で完全にアメリカナイズされていきました。

ハワイの学校の子どもたち(日付不詳)。

市場におけるハワイ・ソイ・カンパニー有限会社とY・タカクワ商会のブース(日付不詳)。

マウイ島カフルイにて、ケンイチ・ニモリとヨシコ・ニモリが経営していたニモリ商店(1921年)。

相撲力士の格好をした父子(1920年頃)。

ハワイ島ワイナクのさとうきびプランテーションの労働者(1912年頃)。

日本からハワイへの契約移民の50周年を記念する植樹(1936年)。

西洋風の服装を着て、ボーイ・スカウトなどのアメリカの組織に適応する二世の少年たち(1920年代)。

裏千家の茶会(1941年1月)。

ハワイ島ヒロにおける仏教青年会会議。

Nisei Veterans Legacy